気候は温暖であり夏は多くの海水浴客でにぎわいを見せる。冬は潮風の直撃を受けるため島に吹く風は冷たい。愛知県に属する島であるが、伊勢神宮と深い関わりがあるという歴史の成り立ちから文化圏的には三重県の特徴も色濃く残す。
変化に富んだ海岸線を持ち、黒松と女竹(めだけ)の生えた、風光明媚な美しい島である。その美しさからだろうか、篠島は古来より多くの歌人・俳人に愛された島でもある。万葉集にうたわれた「夢耳 継而所見乍 竹島之 越礒波之 敷布所念(夢のみに 継ぎて見えつつ 小竹島の 磯越す波の しくしく思ほゆ)」という歌の小竹島は「シノジマ」と読み、現在では篠島の歌であると定着している。1975年には島内の公園に万葉歌碑も建てられた。また有名な俳人、種田山頭火も篠島の土を踏み、島で八句もの句を詠んだ。島には山頭火の句碑も建てられている。
篠島には先史からの遺跡が存在し、数千年もの昔から人々が住んでいたと伝えられており、実際に多数の土器や貝塚が発見されている。1986年に、神明神社の建て替えの際に発見された貝塚では、きざみ目のある鹿の角や縄文時代の土器・骨角器など、全国的にも珍しい出土品も見つかっている。
かつては伊勢神宮領となっていた時代もあり、伊勢神宮を創建したと言われる倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が篠島を訪ねてきた伝承が残っているほど、古来より伊勢との深い関わりが続いている。(伊勢神宮との関わり)
1976年には篠島に連なる小島であった中手島・小磯島が埋め立ての基点となり篠島本島と陸続きになった。この埋め立て地は1979年にはフォークシンガーの吉田拓郎がオールナイトコンサートを行ったことでも知られている。コンサートは7月26日の午後7時から翌27日の午前4時30分まで行われ2万人余りの観客を集めた。
島の人々は人口の80%以上がなんらかの漁業関係者である。島の近海では年間を通じて高級な魚が獲れ水産加工も盛んに行われている。特にしらすの漁獲量は多い年で年間約5000トンと日本一を誇っており、漁業者の約6割がしらす漁に従事している。夜半過ぎに漁船が群れをなして出港する様子は港全体が昼間のように明るくなり、まさに圧巻。しらす漁が始まったのは昭和51年頃で、漁は2隻の船で網を左右に引き、中央網の中央でしらすをキャッチするという仕組み。4月から11月には島のあちこちでしらすが干されている風景が見られる。近年は「篠島のしらす」のブランド化も進められている。また近隣の日間賀島同様、フグやタコなどを食べに訪れる観光客も多い。
その他、篠島近海で獲れる魚介には以下のようなものがある。
・魚介類
カタクチイワシ(しらす)、イカナゴ、真鯛、黒鯛、メバル、アイナメ、イシダイ、カワハギ、フグ、キス、コチ、サヨリ、スズキ、マアジ、マサバ、マダコ、マコガレイ、ヒラメ、車エビ、伊勢エビ、アカシヤエビ、マナマコ、ガザミ、アナゴ、キュウセン、コチ、ブリ、タチウオ など
・貝類
アワビ、タイラギ、サザエ、ウチムラサキ(オオアサリ)、ミルクイ、岩ガキ など
篠島が伊勢神宮と深い関わりがあることは島では常識だが、その関係がいつ頃から続いているかは定かではない。1000年は経過しているだろうと言われているが、起源ははっきりとしない。それほど古くから続く関係なのである。
伊勢神宮で一年を通して最も大切な儀式は「三節祭」であるが、篠島ではこの三節祭の祭礼に塩漬けした鯛を奉納する習わしになっている(おんべ鯛奉納祭)。
遷宮(せんぐう)とは神社の本殿を造営・修理する際、ご神体を仮の本殿に移しておくことを指し、定期的に行われる遷宮を特に式年遷宮と呼ぶ。三重県伊勢市の伊勢神宮では西暦690年から原則20年ごとに式年遷宮が行われているが、この時に生じる土之宮(つちのみや)の古材は篠島へと運ばれ、篠島にある神明神社、八王子社を遷宮する際の材料として用いられる。つまり神明神社、八王子社はかつて伊勢神宮であった材木を使って建てられているのだ。こうした伊勢神宮の古材をもらい受けることを「御古材御下賜」という。
次回の伊勢神宮の式年遷宮は2013年に予定されているが、その2年後の2015年に神明神社と八王子社の遷宮も行われる予定である。
いにしえの昔、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が、天照大神(アマテラスオオミカミ)を伊勢神宮に祀るため、その御贄所(おんにえどころ)として篠島を選定したと言われている。「贄」とは伊勢神宮に献上する供物のことで篠島では鯛を贄として奉納していた。鮑・檜について確認
この御贄所の守護のため771年に伊勢神宮の土之宮の古材を使って建てられたのが「伊勢土之宮」、後の神明神社である。篠島に土之宮が建てられてからは伊勢神宮に参拝する者は「宮巡り」と称して伊勢から篠島へと渡り、篠島の伊勢土之宮も併せて参る習わしとなった。天気が荒れ、篠島への船が出ない際には伊勢の二見浦に設けられた遥拝所(ようはいしょ)から篠島の土之宮に向かって海越しに参拝をしたと伝えられている。
八王子社は神明神社の古材を用いて建てられた神社である。伊勢神宮から神明神社へ、神明神社から八王子社へと材木が受け継がれ、その都度かんなを掛けて木材の表明を削っていくので、徐々にその大きさが小ぶりになっていくのが面白い。八王子社は海の神として古来より敬われており、ここに祀られている男神が神明神社の女性神の所へと、お渡りするのが篠島の正月の祭礼となっている(正月祭礼・大名行列)。
篠島には古くから、12~13歳の男子、5~10名程度が宿親(やどおや)と呼ばれる大人の元で共同生活を営む「若い衆宿」と呼ばれる宿親制度があった。仲間の内の誰かの家のひと部屋を借り受け、各々自分の家から布団を担ぎ込み「○○組」といったチーム名を決めて、寝起きを共にするのだ。もちろん部屋の貸し主が宿親である。宿親は男子たちのお目付役として親身な指導・監督(どんな指導をするのか)をすることになる。漁師町という特殊な環境を維持していくために、島民同士がこうした強固な協力関係を築くことが必要だったのではないかと考えられる。
同じ組の仲間は、朋輩(ほうばい)と呼び合い、強い連帯感を親密さを共有することになる。若い衆達は、漁の仕事を終えると一旦自宅に戻り、入浴と食事を済ませた後で宿に集まることが習慣となっていた。宿では、朋輩同士で遊んだり語り合ったりして過ごし、翌朝の漁に備えて一つの部屋で共に寝るのだ。漁が休みの日は、食事の他はほとんど宿で過ごすことになる。
こうした宿親制度が生まれた背景には、人の住む場所が限られている、島という限定された土地だということが強く影響していたようだ。1970年頃生まれの島民までは、こうした宿親制度に参加していたようだが、近年では少子化傾向も手伝い、こうした制度はほとんど行われていないという。
娘遊び・通い婚…公家や大奥のなごり?
篠島では神社でなく、あるお寺の前に一対のこま犬がでんと座っている。お寺とこま犬という奇妙な組み合わせは、この島に祀られている神様の犬嫌いに由来するという。
篠島では毎年正月の3日4日に正月の祭礼が行われている。3日の夕方は、八王子社から神明神社へ神様がお渡りされるのだが、この間は島中の灯りを消し、静かにお渡りが終わるのを待つ習わしとなっている(正月祭礼・大名行列)。
ある年のお渡りの最中、八王子社の方角から荒々しい犬の鳴き声が聞こえてきた。その頃の篠島には1匹の犬もいないはずで、犬の吠える声を聞いた島民はみな悪い予感を覚えたという。
その年の漁時期は海が荒れ、漁に出ることができない日が幾日も続いた。あまりにも荒天が続くので、漁師達は八王子社の神様に願掛けのお参りをすることに。何度も八王子社へ足を運んだ漁師達は、こま犬が台座の下に転がり落ちているのに気付いた。漁師達は誰かのいたずらと思い、こま犬を元の位置に戻したが、明くる日も明くる日もこま犬は台座から転がり落ちていた。
漁師達はこれを海の神様である八王子様がケダモノを嫌っているのではないかと考え、こま犬をひと山越えたお寺、医徳院へと移した。荒れに荒れていた天気はその日を境に上天気となり、以降は大漁が続き篠島の人々は豊かな生活がおくれるようになったという。
それから幾年月が経ち、島の若者達も戦争に召集されるようになった。戦争の激しさが増すにつれ、島からも1人2人と戦死者がでるようになった。狭い篠島で幾人もの戦死者が出ることは大変な出来事であった。8人目の戦死公報が届いたその日、島民が誰ともなく「島で犬を飼う者がいるから八王子様が怒っていらっしゃるのではないか」と言いだした。調べてみるとその頃の篠島には8匹の犬がいることがわかった。家族同然の犬との別れを嘆く者もいたが、若者の命には替えられない。島民達はすべての犬を島から追い出すことにした。
以来篠島では何年もの間、島で犬を飼うことは決して許されなかったという。